与路島

『フェリーせとなみ』に乗船

奄美大島・古仁屋港から請島を通って与路島へ向かう船に乗り込んで、まず目に入ったのが、山積みの生活物資と乗客(主に後期高齢者)たちだった。

生活物資の数々には個人名がわかりやすく大きく書かれているものが多く、ここでは番地よりも個人名の方が融通が利くのだろう、と察する事が出来る。

乗船客の服装は、よそ行きとまではいかないけれど、決してラフまではいかない様相だった。

船は、14:30に古仁屋を出て、請阿室(請島)、池地(請島)、与路(与路島)の西から順に停泊していくのだけど、何故だか加計呂麻島を東から回って、与路島や請島の池地集落を通り越して、請阿室に向かった。潮の調子なのだろうか?内陸の平野で育ったので、海の事はさっぱりわからない。
船内では池地に帰るというおじいさんから、窓の外に何かが見える度に、「あれは〇〇」「これは〇〇」といった具合に色々な事を教えてもらった。と言っても、殆どが無人島か集落の名称なのだけど。
無人島も岬も何もかも、どれも同じように見えるのだけど、それが日常生活の場となれば、いつの昔からか土地に名称が与えられて、それぞれを把握しているものなんだなぁ。と思った。

まさかの、船が故障

明後日に向かう予定の請島・請阿室港に停泊したところで、船が動かなくなった。

最初はすぐにどうにかなるだろう。と思ったけど、思いの他どうにもならず、1時間経ったか経たないかした頃に、池地で降りる人達は陸路で向かう事になり、池地からお迎えに来た車に乗り込んでいった。
与路へと向かう人は自分を含めて3人で、代替えの海上タクシーを待つ事になった。
待ちながら、海がきれいだなー。と思う。
海上タクシーが迎えに来たのは、17:00過ぎだった。
海上タクシーが到着すると、まずは与路島へ届ける大量の荷物を積み込まれた。これを少々手伝い、ようやくの出発となった。
乗船したのは、故障した船の船員さん3人と、帽子を被り、スラックスにベルトというよそ行きの格好をした地元のおじさん、部活の練習着らしき服装の高校生くらいの女の子だった。
よそ者が珍しいのか、おじさんにはよく話をかけられた。おじさんに「あれはハミャ島というテレビのロケがあった無人島だから、写真を撮りなさい。」と言われて撮った写真がこれ↓
ハミャ島のことは、先程の池地のおじさんにも聞いたばかりだった。

2時間遅れで与路島に到着

与路の港には、5〜6人の人達が待ち構えていた。大事な荷物が沢山届くから、それなりの人手が必要なんだろう。

ネットで検索して見た、標準語を連想させる響きなど全くない方言で「ようこそ」を意図する文字が与路の港の建物が、すぐそこに見えた。
16:10に到着の予定だったけど、すっかり18:00前になっていた。
予約していた民宿のおばさんも、港で待っていた。自分がどんな様相で、どんな出で立ちで来るのかは伝えていなかったけれど、よそ者は一目でわかるんだろう、迷わず自分に声をかけてくださった。
防砂林の切れ目が島内唯一の集落の入り口であり、乗ってきた自転車を押して民宿へ向かうおばさんの後ろをついて歩いた。
今までの経験上、小さな離島の民宿は港まで迎えに来てくれるところが殆どで、また、距離に関係なく車で来て下さるところが殆どだったけど、おばさんは自転車だった。
たまたま車がないタイミングだったのかも知れないけど、民宿は港から激近だった。
民宿の入り口の塀の上には夜光貝の貝殻が並び、七夕飾りが立てられていた。

民宿がほぼホームステイ

まず居間に通されて、コーヒーとお茶菓子を頂いた。月桃に包まれたお餅と、黒糖が混ざっているのか?焦茶色の菊の形をした乾菓子は、このタイミングでここに来たからだろうか?地域と季節を同時に感じられるものだった。お腹いっぱいになる内容だった。

それにしても、家族の写真と親戚・近隣の人の電話番号表が壁の面積の殆どを占めるこの空間は、民宿の居間というよりも、まるで一般家庭の居間だった。
テレビの横のiPadで次々と表示される名瀬に住んでいるというお孫さんが、とびきり可愛いかった。船の中で一緒だった女の子といい、奄美には普段では見ないようようなボリューム満点の睫毛の人が多い印象。
コーヒーとお菓子を平らげたところで、「さ、晩御飯作ろうかね。」と言って、おばさんは台所に向かった。
おばさんが台所で料理をしている間、居間の写真や家族が取材された新聞記事を見たり、一通り居間にあるものに目が通ると、勝手口から外に出てみたり。
勝手口を出ると、まずきれいな猫ちゃんに遭遇した。実家の白猫よりもきれいだし、きっと飼い猫だろう、触らせてくれるだろう、と思われたけど、触らせてくれなかった。民宿のおじさんにしかなついていない、野良猫だそう。
それから少し先に目をやると、びっくりするくらいでかいヤドカリがいた!でかすぎてびっくりしたけど、このくらいのヤドカリはここにはゴロゴロいる事を翌日知る。
猫ちゃんの気を惹こうとヤドカリを目の前に持ってきたけど、ちょっと興味を示してくれただけで、やはり触れなかった。
それから庭の奥に行くと犬がいて、その後ろには3頭の牛を囲う小さな牛舎があった。
犬は繋がれていて、はち切れんばかりに尻尾を振ってこちらに興味を示してくれたけど、食事前なので触らないでおいた。

豪華な食事と庶民的なお風呂

晩御飯は、民宿のおじさん、おばさんと、前出の居間で3人で食べた。コーヒーを飲みながらお刺身が食べれない旨を伝えたら、お刺身を揚げて下さっていた。

すごく豪華な内容で、立派過ぎて全部食べれなかったので、一部を明日の朝御飯に回してもらった。
↓これに、御飯とあおさ?のお吸い物つき。
お風呂は、建替え前の母方の実家を思い出すような作りだった。
お風呂を頂いて、お部屋に置いてあった観光本などをぱらぱらと見て、この日は就寝した。
ごろんと寝そべって見上げた天井は、ホームステイ感満載(勿論いい意味で)。

ーーー2日目---

与路島の風土を垣間見る

昨晩、何時に朝食をとるか尋ねられた際に、ゆっくりしたいけど遅すぎても迷惑だろうと考え、8:00にお願いしておいた。

そうして目覚ましをかけずに就寝したのだけど、7:00前には自然と目が覚めた。目覚めはすっきりだった。いつもなら目覚ましをかけてないと10:00前まで寝てしまい、目が覚めても小一時間は床から出られないのに、だ。健康的だ。
朝食まで時間があるので、散歩に出かけた。
昨日は夕方から曇り出した所為もあるけど、与路に到着してすぐに民宿に向かい、それから民宿の敷地内にしかいなかったから、ここでようやく与路島の一番の特徴だと謳われている昔ながらのサンゴの石垣が日常にある風景を目の当たりにした。ハブ撃退用の棒(その名も「ハブ棒」。そのまんま。)もたくさん見た。


それから、ヤギを飼育している風景も。ヤギは野生のものもたくさんいて、昨日船の中から池地のおじさんに「あそこに野生のヤギがいる」と指を指された先にヤギを見た時はとても珍しいものを見た気持ちになったけど、ヤギは野生にも家庭にもたくさんいた。
空家も少なからずあり、半壊している部分から見えた室内には、親戚の連絡先が大きく壁に貼ってある様子が伺えた。
血縁を大切にする土地柄を感じると同時に、東京の地名が多い事と朽ちた家屋の様相に、虚しさも感じた。

戻って来てから、「今だ。」と思い、宿泊している室内の写真を撮った。

昨晩、部屋に踏み入れた瞬間に、亜熱帯の生活感が滲んだ室内に感激したんだけど、暗くてまともに写真に写ってくれなかったのだった。
左の壁に貼ってあるのは、お孫さんの名前。
部屋の窓にはテラスがあり、屋根があるところが、シンガポールで泊まったゲストハウスを思い出した。
それから、居間で朝食を頂いた。
通常の朝食+昨晩の残りがあるので、朝からお腹いっぱいになる量だった。
朝食を食べながら、民宿のおばさんが「今日は古仁屋で海上タクシーの仕事をしている息子が来るから〜」とお話していて、ふーん、と思った矢先に息子さんが居間に入ってきて驚いた。こんな朝っぱらではなく、お昼か午後か、もっと後になって来るのかと思ったからだ。
息子さん曰く、昨日ウミガメの産卵があったそうだ。来る時に浜を見てわかったらしい。ウミガメはTVの中の生き物だと思っていたし、"浜を見てわかる"というのがピンと来ず、まだまだ自分が知らない事は沢山あるんだ、と思った。


息子さんが居間の窓際で朝食を食べはじめると、昨日の猫ちゃんがみゃーみゃーとしきりに鳴いて餌をねだり出した。座っていた位置からは姿は見えなかったが、鳴き声は大音量で聞こえた。
息子さんは猫ちゃんにおこぼれをあげながら朝食を食べ、おばさんは「今日は姉ちゃん(自分のこと)の食べ残しもあるからねー」と声をかけていた。名前はミーちゃんらしい、という事を知る。
朝食を食べ終えたら、早速、食べ残した手羽先の皮の部分をあげに勝手口に向かった。皮は食べるけど、やはり触らせてくれない。掌に皮を乗せると、体は警戒しつつもしっかりと首を伸ばして皮をかじり、かじり取ったらさっと首を引っ込めて食べていた。
息子さんは「あとで島の反対側の桟橋に行こう。」と言い、どこかに行った。自分も部屋に戻り、歯を磨くなど、身支度を整えた。

どこへ行っても電話が圏外

それにしても、与路島に来てから携帯の電波が入らず、請島でお世話になる予定の知人の友人に連絡が取れず困っていた。
そこで、民宿の電話をお借りする事にした。事情を説明すると、「今は豚の世話からちょうど戻った頃じゃない?」という返事が返ってきた。隣島の人も含めて、近隣の人はみな知り合いという事のようだ。民宿からの電話は繋がらなかったけど、今度は息子さんの携帯電話から民宿に電話があり、折り返しが息子さんの携帯電話にかかってきた旨のご連絡を頂いた。
ついでに、港にいた息子さんから「面白いおじさんがいるから港においで〜」と言われ、港に向かった。

過疎の最先端。40代のおじさんの同級生が5人だった話など

港に行くと、息子さんの船の掃除を手伝っていたという面白いおじさんは、掃除のお礼のビールを片手にいい気分になっていた。

自分もビールを1缶もらい、しばし談話。

息子さん(41歳)、おじさん(45歳)で、幼馴染みだという事(そりゃそうだ)、
息子さんの小中学校の同級生は5人だという事、
今は約80人の人が住んでいるが、昔は1000人ほどの人口を擁していた事(後で民宿のおばさんから、おばさんが加計呂麻島から嫁いで来た際には人口400人台だったと聞く)、
今いる集落の山を挟んで反対側にも集落があった事、
しかしそれは息子さんやおじさんが生まれる前の事で伝え聞いた話だという事、
おじさんはとても優秀で、中卒で難関職の公務員試験に合格した事(酔っぱらいの勢い発言かと思ったけど、本当らしい。)、、、


などを聞く。
"人口減"が既に40年前に始まっていたとは一見驚きの出来事のように思えるけど、
それは"都市部への流出"と言えるものだろう。時代的に。今もそうだろうけど。。
"過疎化"という点では(語弊を恐れずに言うなら)最先端だと思った。


それから、息子さんと民宿に戻ってお昼御飯を食べた。
お昼は焼きそばで、量も普通だった。つまり、夜や朝ほど多くなかった。加減して下さったのか、いつもお昼は控えめなのかはわからない。
民宿のおばさん、おじさん、息子さん、自分。という、ホームステイ状態だった(勿論いい意味で)。

絶好のBBQスポットでウミガメの足跡を見る

お昼御飯を食べ終えてから、息子さんの軽トラで先出の桟橋に出かけた。
民宿がある集落の裏手には田圃があり、それからすぐに山に入る。草木が元気の盛りの時期だ。道幅は1車両分しかなく、離合はまず出来ないので、もし対向車に出くわしたら、どちらかがバックしなければならないそうだが、まず対向車に出くわす事がないそう。山道は険しいけど、山は割とすぐに越えられた。


坂を下るとすぐに浜があり、道は桟橋へと続いていた。
ここは緊急用の桟橋で、集落側の桟橋が時化などで使えない時に使うそう。
その他の使い道としては、ここでバーベキューをするのが最高なのだそう。いいなぁ。
ここでウミガメの足跡や産卵の跡の事を教えてもらった。ウミガメの進路は海中から浜のアダンの根の元までをブルドーザーのように残しており、アダンの根の元まで来たところにある砂山の下に卵が埋まっているそう。
卵は1.5メートルほど掘った穴の底に埋まっているそうなので、掘り起こして実物を見てみたい気持ちになったが、それは大変だ。
昔はウミガメを食べており、ウミガメが海から上陸して、産卵を終えたタイミングで殺すと、亀と卵の両方が食べれるという事や、卵がすごく美味しいという事を教えてもらった。
アダンの根の元では、民宿で見つけてびっくりしたサイズのヤドカリがいっぱいいた。
ヤドカリは熟れて落ちたアダンの実に集っていた。アダンの実は人間は食べないそうだけど、ヤドカリは大好きなようで、木に登って食べているものもいた。
夕方は一面の水平線に沈みゆく夕日が見れるそうで、夕日また連れて来てくれると言って頂き、ここを後にした。

海の恵みでアートを作るおじさん

それから集落に戻り、午前中のおじさんとは別の、"面白いおじさん"の家に連れて行ってもらった。

こちらのおじさんは、浜に流れ着いたゴミで色んなオブジェを作っており、戦史や琉球史が好きなようで、色々お話を聞かされた。
おじさんが履いていたサンダルも、海で拾ったものだという。
先程の浜でも色々なところから流れ着いたゴミが気になったのだけど、奄美の信仰に「海の向こうから色々な恵みが流れ着く」というものがあった事を思い出した。
海は外から色々な"もの"が流れ着く場所で、それが"ゴミ"と思うかどうかだ。今ほどに"もの"がなかった時代、よその"もの"が珍しかった時代があったのだ、という事を思い起こした。

ほとんどジャングルクルーズ・レベル1

それから、今度は集落の南外れの山道に連れて行って下さった。

GoogleMap上で島内の簡単な道順は認識にあったけど、地図を出ているような道が、まさか舗装されていない道だとは思わず、びっくりした。テレビなんかで見る、がっくんがっくんさせながらジャングルを車で行く、というやつだった。
これでも整備したてな方だそうだ。言われてみれば、確かに土が慣らされている。
ジャングルを抜けると、浜があった。家は全くない浜だけど、ここで奇跡的に携帯電話の電波が入り、色んな人から着信やメールが届いていた事を知り、片っ端から連絡した。
↓帰り道に見えた集落が一望出来る場所。今は鉄塔が建っているが、以前はここに秘密基地ノリでピクニックスポットを設けて、ここから暇をしている人影を見つけては、お誘いの電話をかけていたそう。島の情報網はインターネットよりも早い。。

加計呂麻島までドライブへ

それから、古仁屋に帰るという工事業者さんを加計呂麻島に送る仕事がある、という事で、港に戻った。与路島から古仁屋までは加計呂麻島の外海を回って行かなければいけないが、

与路島〜加計呂麻島の南側に上陸〜陸路で加計呂麻島の北側へ〜古仁屋
という裏技があるらしい。
「加計呂麻島までドライブに行くかい?」と言って、船に乗せてくれた。

オススメされるままに、船の先へ。ビールまでもらう。

加計呂麻島が見えてきたと同時に、人が立ち入れないような絶壁にヤギがうようよいるのが見えた。ここはヤギにとって住み良いところなのか?
それからやや大きめの集落が見えてきた。地図で確認すると、どうやらいつも福岡でお世話になっている加計呂麻島のTさんの出身集落だという事がわかった。
加計呂麻島には一瞬、桟橋にだけ上陸して、船は与路島へと向かった。
帰る途中でハミヤ島沖で少し停泊してくれた。
ハミヤ島にヤギの影が見えた。今にハミヤ島には雌のヤギが2頭いるそうだという事を教えてもらった。これは調査して得られた情報ではなく、"普段通る時に見てるから知っている"そうだ。

水平線に沈む夕日を見に桟橋へ

与路島に着く頃にはいい時間になっていて、再び集落の反対側の桟橋に連れて行って下さった。

水平線の先には遠くで操業する大型船の影や、もっと近くでは、ウミガメが海中からひょこっと頭を出す瞬間が何度か見られた。恐竜みたいだった。
日が沈んでからの空がきれいだ、という事で、夕日が沈んでからもしばらく景色を眺め続けた。
夕日を見ていたら、息子さんの携帯電話に電話がかかってきた。どうやら民宿のおばさんかららしく、「山の上から見た方がきれいじゃない?」と伝えてきたそうだ。
息子さんは「どっちから見るのが好きかは人それぞれじゃない?」といいつつ、山の上からも景色を見に行った。

珍植物のサガリバナを見物

日が暮れて民宿に戻ると、入り口にサガリバナが咲いていた。

サガリバナは夜に咲いて朝に散る花で、この時期しか見られないそう。こんな珍しいものを偶然見る事になるとは。
独特の甘い匂いがした。
この日も晩御飯がたくさん出たけど、最後の食事だから頑張って全部食べた。
1日お世話になった息子さんは、シャワーを浴びたらさっさと近所の人の家に飲みに行った。

ーーー3日目ーーー

奄美の朝

朝起きて早速サガリバナを見に行ったら、こんな事になっていた。

本当に散っていた。
朝は7:00発の船に乗るので、朝食は頂かず、お茶とお茶請けを頂いた。お茶請けは苦瓜と豚肉の島味噌漬けという、また何ともこちららしいものだった。
宿泊代の支払いを済ませて、港に向かった。


旅行の忘備録

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